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論文要約11「ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とその教育的意義」

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ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論とその教育的意義(丸山)

1はじめに
本稿の目的はウィトゲンシュタイン言語ゲーム論を教育という観点から読み解くことである。問題は2つ。
1つ目は、言語ゲーム論そのものに対する誤解が多いこと。
2つ目は、ウィトゲンシュタインが挙げた「教える-学ぶ」という観点からの研究がほとんどなされていないこと。
よって本稿ではこの2つの問題に向き合い、言語ゲーム論から教育論を提示することを目指す。


2ウィトゲンシュタインの経歴
1889年ウィーンで生誕。興味が機械工学から数学へと移り、ケンブリッジの学生となる。その後「論理哲学論考」を書き上げ、これで哲学の問題は解決とし教員となるが、再び哲学に価値を見いだし、前期哲学を批判しながら後期哲学を表した。1951年に死去。


3言語ゲームとは何か
言語ゲームは、日常の多様な言語活動のことだが、特に、子どもが使うような原始的で単純な形式がしばしば語られ、また、状況により言葉の捉えられ方が異なることに言及し、言語を生活の文脈から切り離すことの誤りを指摘するために採用されている。
原始的な言語活動に対して用いることが多いのは、単純であるが故に拡張しやすいからであり、単純な言語ゲームを拡張しながら言語の働きをみようとすることは哲学の手法のひとつでもある。


4言語ゲーム論の目的
ウィトゲンシュタインは再び哲学の道に戻ってから、自信が哲学の本質を解き明かしたとした「論考」に大きな誤りがあるとし、前期の哲学を批判していった。
「論考」とは言語と世界の間にある論理関係を明確にし、哲学的問題を招来させる誤解を解くために書かれた。対象と名は一対一であり、言葉が写像されて対象が表現される。
哲学後期のウィトゲンシュタインの「探究」は「論考」の言語論の考え方を批判するものである。つまり、言語と現実は対応関係にあり、言語の働きは現実の記述だとする考えを批判している。このままだと言葉の多様性を無視し、1つの意味しか見なくなってしまうからだ。そしてこうした誤りを否定するために言語ゲームが導入された。
ウィトゲンシュタインは、「心的な作用が語と現実を結びつけている。意味は語から独立しており、語は単なる記号でしかない」という考えを繰り返す。
対応説的な言語論に従って、語が心的な内容を指示し、それを記述することだとしたらばそれは誤りであり、それを正すために言語ゲーム論が導入されたのだ。


5教育論としての言語ゲーム
前述の通り言語ゲーム論は原初的な言語ゲームから通常の言語ゲームへの展開の考察である。通常の言語ゲームにおいて人は自分の語に疑問を持たない。しかし初期の言語ゲームにおいて子供達は自分たちの言葉に疑問を持ち、そこから言葉を習得していく。その過程で言語ゲームのプレイヤーの知識は拡張されるのだ。つまり原初の言語ゲーム→教育の言語ゲーム→通常の言語ゲームという段階を経て成長する。
ここからは通常のゲーム論の熟達、つまり、言葉を習得したとはどういう状態なのかという問いかけについての答えを明確にしていく。
(a)教育の言語ゲームと通常の言語ゲームの相違点と類時点
相違点は、前者ではゲームの高性能要素を理解していないプレイヤーがいて、言葉による説明が成り立たない場合があること。
類時点は、言葉を用いたふるまいの同型性である。程度の差はあれど、理解したかどうかは学習した言葉をどのように使うかで示され、そこでは通常の言語ゲームと同様の使い方が求められるのだ。

(b)他者である学習者の理解
理解したかどうかな確認は学習者の振る舞いによりなされるのであり、学習者の心的な現象を特定してなされるのではない。
それゆえに「理解している」というのは、任意の共同体に参加するための資格(例えば日本語を話せる、足し算が出来るのど)の確認的な意義をもつ。
なので、心的に理解したと思っていてもそれが誤りだったと気づくのはよくあることだ。

(c)語使用の知
言語ゲームにおいて理解は振る舞いによって確認されるが、言語ゲームの発展は単なる振る舞いの熟達だけに留まるのだろうか。
通常のゲームのプレイヤーは言語を定式化されたルールに従って使用してはいないが、それでも言語使用に対する正誤判定は可能である。語使用の知は、正しい語使用を支える知なのだ。
語使用の知は単なるルールの理解に留まらない。定式化されたものをただ機械的に使用するのではなく、状況文脈に沿った臨機応変な使用も支える知でもある。
語が規則に従って使われてない以上、規則化して教えることのできないものも必要である。言語ゲーム論によって明らかにされたこのような知識像は、言語は明言化された規則の応用であるという理論の批判であり、ここから教育の言語ゲームで学習者が何を学ぶのかをもう一度問い直すことができる。ただ現象と言葉を対応させるだけでなく、文脈による使い分けといったルール化できないことも学ぶ必要がありそうだ。


6おわりに
言語ゲーム論の読解を通して、知識の習得は状況文脈における使い方にまで拡張指せる必要があることが分かった。これらは最近の状況意味論や認知科学への課題としても残るだろう。

「ブログ主より」
かなり古い論文を引っ張ってきてしまったと後悔。そもそも学習者はいつまで学習者なのだろうか、その定量的ないし定性的な基準が無いことに対しては疑問が残った。しかしながら、言語という複雑で際限のないものを体系化して今後の議論の架け橋となったことには興味が湧いた。今後は最近の研究から、現実はゲーム論で述べられた意識について、その定式化が進んだのか、または別の展開になったのかを調べようと思う。


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