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論文要約17「情報科学の歴史~初期コンピュータのソフトウェア~」前編

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情報科学の歴史~初期コンピュータのソフトウェア~(廣野)


1序
まずソフトウェア(software)という言葉の起源について説明する。wareは「◯◯ware」という形で用いられ、◯◯には性質や場所の名前が入り、それを用いた製品であるという意味を持つ。ironwareなら鉄製品、kitchenwareなら台所製品だ。
もともとsoftwareは、金属など強くて長持ちする製品を表すhardwareの対義語で、弱くて長持ちしないという意味がつけられていた。それが1950年代から電子機器にとって重要なものを表すsoftwareという意味が形成され始め、日本では1969年に初めて「software(利用技術)」という形で毎日新聞に登場した。
現在におけるざっくりとした説明を添えると、ハードウェアはマウスやキーボードなど目に見えるもので、ソフトウェアはアプリなど目に見えないものだ。


2初期のコンピュータたち
初期のコンピュータ郡の開発は情報科学の基礎が築かれた1936~1948年辺りに盛んに行われた。コンピュータは情報科学が完成してから作られたのではなく、「機械的作業は機械にやらせるべき」という動機は潜在的に存在し、実現を図ってきたのだ。
19世紀の航海に使う数表や航空機の設計における30元連立方程式などの膨大でヒューマンエラーの起こりやすい計算が計算機に手を出す強い動機になっていた。
初期の情報科学はまずコンピュータを作ってみて、外部から知識をいれたり、知識そのものを生み出したりしながら進歩していた。ある対象の規則性を見いだすという点で情報科学は自然科学と一致していたと言えるだろう。

今日のコンピュータはすべてフォン・ノイマン型である。要点はプログラム内蔵型と逐次処理の2点とされるがその主張は研究者により異なる。しかしどれほど複雑だろうとものコンピュータはデータ入力、プロセッシング、新たなデータ入手、の処理をするシステムでしかない。このプロセッシングを完全自動で行うのが現在のコンピュータだか、初期型は途中で人の補助が必要だった。

プログラム内蔵方式のため、ソフトウェア研究はプログラミング言語に集約され、またそのお陰でソフトウェア研究は開花した。プログラム内蔵方式により長い配線が無くてもコードを走らせることが出来るようになり、無限の可能性を内臓した情報処理機へと進化を遂げたのだ。
以下プログラム内蔵方式確立前後のソフトウェアの制約をいくつかのコンピュータに焦点をあてて説明する。

~~~~後編へ続く~~~~~~~~

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論文要約15「宮崎駿にみる身体感覚-体感体験と創造性」~後編~

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4考察
(a)特殊な身体感覚・体験感覚
「黒い粉」のエピソードや「黒いどろどろしたものが身体から噴出する」といった発言からは宮崎が特殊な身体感覚を持ち、体験していることが考えられる。それらを繰り返し語ったことから、それだけ強烈な体験だったことが伺える。こういった表現は比喩とも捉えられるが、名状し難い体験を言語化する試みだったとも捉えられる。また、これらは皆に共通すると思っていたということは、宮崎はこういった体験を一般的なものだと感じているということだろう。
宮崎駿の「鈴木敏夫の身体から黒い粉が出ていた」というエピソードは単なる幻覚とも捉えられるが、その背景には、身体から黒いものが出るという宮崎の実体験を他者に投影したことによる発言だと理解することも出来る。

(b)身体感覚に伴う情動反応
前述の通り宮崎は「黒いどろどろしたもの」に伴う感情として、怒り、憎しみ等を挙げている。
タタリ神、カオナシ意外で怒りにより凶暴化するギャラクシティとして「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカがいる。ナウシカが、父が殺された怒りでその場にいた兵士を殴り殺していくシーンや、「わたしのなかに恐ろしい憎しみが潜んでいて、自分でも抑えられなくなるんです」というセリフは正にその例だ。
もののけ姫では情動反応として髪が逆立つシーンがある。ナウシカでも怒りで髪が逆立つシーンがあり、「怒髪天を衝く」という慣用表現を映像化している。風は目では捉えられないがものがはためくことにより視覚化可能であり、"風を感じる"ことは一般的に共有可能な感覚だ。浦谷はこういった風の表現が宮崎の真骨頂なのではないかと考察した。
こうしてみていくと、作中の黒い訳の分からないものや風の表現は宮崎の名状し難い感覚や体験を具体化することで創作された映像なのではないかと想像できる。

(c)影と闇を体現するキャラクター
~皇弟ミラルバ~
「体から黒いものが出ている」表示として「風の谷のナウシカ」にでてくる「土鬼の皇弟ミラルバ」がある。ミラルバは自分の精神と肉体を切り離す特殊能力を持っており、殺された後も黒い塊のままさ迷い続け、意識を失ったナウシカに取りつく。意識を取り戻したナウシカに追い出され、無力な老人の姿となり闇に吸い込まれそうになった所をナウシカに救われ、光の世界へと導かれた。
この描写や「影」の概念に最も影響を与えたとされる小説として「ゲド戦記」が挙げられる。

(d)特殊な身体感覚と小説「ゲド戦記」が創作に及ぼした影響
宮崎作品に大きな影響を及ぼしたゲド戦記は全6巻だが、宮崎が読み込んだのは前3巻。第1巻「影との戦い」は禁じられた魔法で自らの影を呼び出してしまいそれと対峙する物語。第2巻「壊れた腕環」は、世界に平和と均衡をもたらす腕環を探し、主に暗闇の地下迷宮で物語が進む。第3巻「さいはての島へ」では大賢者となったゲドが世界の均衡を取り戻すために旅をし、黄泉の国の扉を閉じて期間するまでの話である。
ナウシカ」から「ハウル」に至るまで全ての作品に影響を与えたゲド戦記を通読すると、影響を与えたとされるキャラクターや設定を見つけることが出来る。
なかでも「影」と「闇」の設定は特に影響を与えたのではないだろうか。1~3巻の描写はナウシカを彷彿させるものがある。
なぜこれほどまでにゲド戦記に心酔し、影響を受けたのか。それは自身の「黒い訳の分からないもの」が身体から出てくるという情動反応を伴う体験を理解し、制御するヒントをゲド戦記から得たからではないだろうか。
ゲド戦記の主人公ゲドは他人への怒りから自分の影を生み出してしまったが、それと向き合い、最後には一体化した。自らの影や闇を否定するのではなく、それを受け入れ得るものとして生きる「ナウシカ」「アシタカ」の原型はゲド戦記にあっとものと想像される。


5体感異常症との異同
宮崎駿の「黒いどろどろさたものが身体から出てくる」という感覚は精神医学的には体感異常症、もしくは皮膚寄生虫妄想と類似している。
ここで、宮崎の特殊な身体感覚と体感異常症との類似点や相違点について述べる。
類似点は体験の確信性の高さだ。どちらも本当に体験したと信じている。
相違点としては、宮崎のものは一過性であるのに対し体感異常症は慢性的である点、また、宮崎のものは身体内部から外部に何かが出るのに対し体感異常症は身体内部や皮膚の異常感覚である点が挙げられる。

6体感体験と創造性
宮崎駿の特殊な感覚と創造性との関連について考察する。
精神異常としての体感異常の最大の問題は患者にとっての身体異常感であり、そのために執拗に治療と原因を求めることになる。一方で宮崎の感覚では自身は損傷せず、興味の対象は感情を伴って出てきた何かに向けられる。このような感情の具現化は映像制作に影響を与えていると言えるだろう。
感情を形にするのはゲド戦記でも描かれたが、これに宮崎が心酔した理由はそれが自身の体験と類似していたからだと考察される。


7おわりに
宮崎の特殊な感覚を様々な視点で考察した。内的体験を具体化する行為は宮崎の創造性における大事な要素ではないだろうか。


「ブログ主より」
ジブリは老若男女誰でも楽しめるという入り口の広さと、考察し出したら止まらないという深さを兼ね備えた作品だが、本稿によりそれが感情の具体化によるものではないかと予想できる。誰にでも感情はあるが誰も感情を理解し切れない。そういったテーマが宮崎作品の全てに当てはまるからこそ圧倒的人気と普遍性を持つのだろう。


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論文要約15「宮崎駿にみる身体感覚-体感体験と創造性」~前編~

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宮崎駿にみる身体感覚-体感体験と創造性(高橋、松下)

1はじめに
"千と千尋の神隠し"や"ハウルの動く城"など多くの名作を手掛け世界中から称賛される天才宮崎駿、直接出会った人は彼の作品以上にその人間性に魅力を感じるという。
本論では資料から主に宮崎駿の特殊な身体感覚・体験感覚と考えられるエピソードを抜粋し、それらが作品に与えた影響や関係性について、精神医学的に考察した。


2検討の対象とした資料
宮崎駿の著書、インタビュー記録
・作品(ナウシカもののけ姫千と千尋の神隠し)
・関係者の発言
宮崎駿とその作品を論じた著作物
・小説「ゲド戦記」とそれに関連した宮崎駿鈴木敏夫の発言


3資料検討の結果
(a)黒い粉
鈴木と荒川が映画「崖の上のポニョ」制作中の宮崎駿に関するエピソードとして以下の発言をしている。

荒川「東映動画の先輩が亡くなったとき、宮崎さんは混乱していたのか絵コンテが不調だった。そのときスタジオで鈴木さんとの雑談を終えて帰って来た宮崎さんが『今鈴木さんから黒い粉が落ちてたの見えたか?』と聞かれ戸惑っていると『黒い粉が降っていただろ、見えなかったのか』などと言われた。言動がおかしくて、どう答えたらいいか判らなかった。」

鈴木「一般の人には伝わりにくいが制作で困り果てたとき精神状態がおかしくなることがある。宮崎さんはそれを具体化する人だから、スタッフに確かめる。こわいので皆『見えた』と嘘をつく。荒川さんが『見えなかった』と答えたのは大事なことで、個人が確立されている証拠」

(b)タタリ神・カオナシ
次に宮崎駿本人の発言から黒い粉を連想させるものを抜粋する。まずはもののけ姫のタタリ神。

「タタリ神のようなもともと形の無いものに形を与えていいのか戸惑うが僕には実感というか体験としてある。感情的なものが爆発し、毛穴という毛穴から邪悪なものがブワーっと出てくる感じ」



「そういうのは皆に共通するものだと思っていた。憤怒に陥ると体中の毛穴から黒いドロドロしたものが出てきて自分でコントロールできないような感覚。自分でも理解不能なくらい凶暴になる瞬間がある。最近はコントロール出来るようになってきた」

このような黒い凶暴な訳の分からないものとして千と千尋の神隠しカオナシが挙げられる。

「誰のなかにもカオナシのようなものが棲んでいるんじゃないだろうか」

カオナシの『さみしい、さみしい、さみしい』という歌は危なくて使えない。カオナシを優しいと思った途端に食べられてしまう」

(c)暴力・憎悪・怒り
上記の黒いドロドロは怒りや憎しみを動機にしている。以下では宮崎をより理解するためにもののけ姫のインタビューで怒りや暴力について発言したものを抜粋する。

「暴力は本来無いもので、フラストレーションによって発揮されるみたいな理解をしようとする人間を理解出来なくなる。なぜなら人間に暴力はあるものだと思っているから。」

もののけ姫の重要な部分として、コントロール出来なくなった憎悪をどうやってコントロールするかというテーマがある。アシタカが自分の腕をなんとかコントロールしようとするのは、自分の内部で爆発する憎しみを何とかしてコントロールしようとする努力の過程だ。」

「アシタカの行動のほとんどが自分の中の憎しみをどうやってコントロールするかということに尽きる。人間誰しもが持っている暴力や憎しみコントロール出来るのだろうかというテーマがこの映画の制作動機であり、人間の重要な課題だと思う。」

ちなみに宮崎駿がスタッフを怒ったというエピソードは数多く存在する。また、高橋勲は宮崎の気質について、「愛情や期待が激しく、それに裏切られると泣き喚き、人を過度に心配して面倒をみたり口をだしたり、向上心の無い者を早々に見限りつつも面倒を見たり、ときに陰口を叩かれ、女性には親切」と語る。

(d)ゲド戦記
怒りに伴い黒いドロドロが身体から出てくるという特殊な感覚について考察するために宮崎駿の愛読書、小説「ゲド戦記」について検討する。宮崎は次のように語る。

「僕は1つの優れた例を持っている。それはアメリカの女流作家ル=グインの『アースーシーの魔法使い』で日本では『ゲド戦記』と訳されている。これは自分の中の戦いを外に広げてうまく書いている作品で、非常に感動し、繰り返し読んでいる。」
「光と闇が対峙していしていて光が正義で闇が悪という構図が嫌い。ゲド戦記では闇が一番力を持つのではないかと言っている。」

また、映画「ゲド戦記」は2006年に宮崎吾朗監督により作成されることになるが、そのための最終許諾を得るために渡米した宮崎はゲド戦記への思いを以下のように語ったという。

「本はいつも枕元にあり、困ったとき何度も読み返しした。自分の作品はすべて『ゲド戦記』の影響を受けている。」

「作品は細部まで理解している。映画化するのに適しているのは自分しかいない。」

「自分はもう年だ。息子たちがこの作品の新たな魅力を見つけてくれるならそれもいいだろう。」



「ブログ主より」
長い文読むの負担だと思うのでこれからは2パートに分けたりして読みやすくすます。
後編は次回。お楽しみに

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論文要約14「場についての論考ーバーナードへの接近ー」

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場についての論考ーバーナードへの接近ー(石井)


問題の所在
情報技術の発達によりコミュニケーションツールは急激に進化し、SNSとして我々の生活の1部を担っている。しかし、その十分な機能に反して人々の人間関係に対する不安は解消されていない。これは、人間の精神的側面を無視し、コミュニケーションの物理的側面のみを進歩させ続けたことによる。このことは人間関係の問題が情報技術だけでは解決できないことを意味している。
本稿ではこの人間関係の場について「場の理論」手掛かりにして本質を明らかにし、高度情報化社会において場とは何かを捉えていきたい。


1場とは何か
場は物理学における概念として19世紀に誕生し、その後様々な分野に影響を与えてきた。
場の概念の始まりは電磁波だ。磁石の引き合いからヒントを得たファラデーはその空間から何かしらの作用を受けていると考えた。さらに荷電体や磁石による電気力線や磁力線の解析が進み、空間の位置による作用の仕方が明らかになった。これらはマスクウェルに引き継がれ、数学的にまとめたマスクウェル方程式を提唱、さらにこれらは場の理論に発展し、空間において強さと向きが存在するものをベクトル、強さのみのものをスカラーとした。
電磁場のように、場の存在との相互作用を通して物理現象を理解しようとする試みのことを「場の理論」と呼ぶのだ。
ここで場とは我々の認識を越える不思議なものであることを述べたい。湯川秀樹は「場があることは物があることとは非情に異なる。場とは力の概念と結び付く"何かしら"なのだ。」という。遠隔作用を促す媒体が空間に存在しているわけではないのだ。場の性質だけが現象の基準に対して本質的なのだ。
この場の概念の登場は衝撃的なもので、多くの物理学者たちを感心させ、我々の生活を一変させた。


2物理学における場の概念が諸学問に及ぼした影響
心理学は20世紀初めに、分析を主な手法とする要素的心理学に限界が見えていた。そこで導入されたのが、心的世界の解釈を物理的世界のそれと一貫させるゲシュタルト心理学で、現実から心理学を遠ざけていた伝統的枠組みから解放させた。その基礎となったのが場の理論である。
我々の実際の行動を規定する心の動きは物理学的な場の概念に適合するとして展開したゲシュタルト心理学は心理学の展開に息づいた。また、心的動きにまで拡張されたことで経営論や組織論にも影響を与え、バーナードは「組織は物理学における場のような概念であり、そこには物理における力と同じように"人力"が存在する」として経営論の基礎に場の理論を置いた。
また、バーナードに影響を与えたホワイトヘッド場の理論に示唆されて有機体的な考え方を最も根源まで進めることができた。
このようにファラデーやマスクウェルの電磁場の概念があらゆる分野に拡張されたのは、場の理論が物事の現象ではなく関係概念によるものだからだ。
また、電磁場の物理現象自体もSとNが必ず互いに存在する点や、引き合ったり退けあったりする点において、人間社会にもに転化できる。


3ホワイトヘッドによる場の考え方
ホワイトヘッドはもともと数学者で、哲学は63歳から始めた。彼はマスクウェルの電磁気理論で博士号をとっており、場の理論を哲学に持ち込んだのは容易に想像できる。
このようにマスクウェルの電磁気学による場の概念が我々の時代に深く刻まれている。
ホワイトヘッド哲学の場の概念には「もの」が存在していない。「こと」が生成、消滅する世界である。また、「こと」に境界がない地続きな状態こそが場の本質である。この点で彼が提唱する「有機体的世界観」はこの世界の全ての存在は生きているという"こと"を意味しており、現在の数学や物理から出発してもたどり着けるというのである。
ホワイトヘッドは「有機体的世界観」により、物理学的概念と人間社会とを統一的に理解する構図を明らかにしたのだ。数学、物理、社会学など別々の領域に思えることを思弁の拡大により単一の体系化しようとした、これが有機体の哲学だ。
そもそもすべての「もの」は地続きで、常に複雑な相互作用を引き起こす「こと」であり、こうしたことの在り方を「出来事」という。これによれば我々の世界は「出来事」だけで出来上がっている。ホワイトヘッド曰くこの「出来事」ばらばらにして抽象化すると時間と空間になるという。
我々は出来事から様々なものを知覚し、それにより成り立っているが、無意識的にでもものを知覚する。でなければ存在出来ないからだ。これを「抱握」となづけ、それが場を形成することにより宇宙が成り立っているとした。「抱握」が場の構成要素であり、時空間すべてが場であり有機体世界観である。


4バーナードにおける場の概念
バーナードはホワイトヘッドの考え方に影響を受けた。バーナードが場の理論経営学に応用させたことは、人間の諸関係を場の理論で解明しようとした試みであるとも考えられる。
バーナードは組織論を考え、また、個人と全体、決定と自由といった相反する2つを統合することを目指した。
バーナードは決定論と自由意思論との間にある相克を乗り越えるために協働を重視し、それを成り立たせる組織の役割として、公式組織と非公式組織、さらに組織の3要素である貢献意欲、共通目的、コミュニケーションを提唱したのである。この公式組織の構造が心的状況と物的状況を示し、それを統合しようとすれば、ここまでの場の理論の一貫した流れ(心と物理状態の統合)に沿うことになる。


5場とシステムとの関係
バーナードは組織における協働の理論の根底にシステムの概念を置き、組織と理論との統合を理論化した。
バーナードがシステムの考え方に依拠した点は、システムの部分と全体という構造だ。組織でいうところの貢献意欲は部分であり、それが組織の構成要素として相互に作用し合う。
ここでホワイトヘッドの「抱握」を思い出してほしい。組織において貢献要員と全体とが関わり合い、無意識的に統合されていくのは「抱握」と同じ現象である。個人の目的が共通の目的に抱握され、組織という他者として生きることになる。ただしこれは個人と組織とのコミュニケーションが前提となっている。
以上をもってバーナードは組織におけるコミュニケーションの重要性を示した。


おわりに
このように歴史と内容をおってみると、問題の所存で述べた高度情報化社会における心理と物理の不和を解決する可能性がみえてくる。
実際システム論には、機械的システム論と有機体的システム論があり、現在は前者の先行により精神状態の不安定が起きている。それについて今回はホワイトヘッド有機体的世界観に依拠し、バーナードのシステム論に言及したのだ。

「ブログ主より」
あまりに壮大かつ難解だったため一部割愛する始末となった。哲学の普遍性と多岐性には感動せざるをえない。今後は有機体的世界観についての理解を深めたい。興味があればGoogle Scholarでタイトルを打ち込んで、自身で原著論文に触れてみてほしい。

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論文要約13「「書評」現実とは何か:数学・哲学から始まる世界像の転換」

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「書評」現実とは何か:数学・哲学から始まる世界像の転換(西郷矢・田口)

1行為としての読書と現実
読書とは理解を構築し、現実の認識を変えていく行為である。"本書は「ものの考え方」と「われわれの生き方」の両方に関わる根本原理を探究している"という序章から始まるこの本は実に読書の醍醐味を味わわせてくれる。
書評らしく本の要約をすると、第1章で現実と数学の相同性を示唆し、第2章では数学とは非基準選択により問題を選ぶこととその選択を手放し置き換え可能性を見いだすことでその問いに対して普遍的な構造を見つける行為だと述べる。第3章ではこの構造を見いだす行為を定式化し、第4章では現実観の倫理的側面を述べる。第5章では自由を非基準選択と捉え、読者に実践を迫る。


2非基準的選択の自然変換のモデル
広義では認知科学は人間がどのように生きているかに関連することを扱っている。ここで、データから人間の情報処理を推定する過程を考えてみる。
例えばAさんが机Xの周りを回るとその見え方は変化するが、変化の周期性を見いだすことで机Xの同一性を信じる。つまり、実体としてある机Xではなく、一貫した関連性により同一性が構築されるのだ。
ここでAさんの世界は机Xを見ることにより、他の世界を無くすという意味で決定される。
さて、ここで別のBさんが同じように机Xを見ると、見え方はAさんのと比べ一貫性を持って変化するだろう。このように対象が誰にとってのものなのかが変わることを自然変換と呼ぶ。
非基準的選択とは、選択した後で"そうしなくてもよかった"とされるような選択である。10個のりんごから1個選ぶといった行為だ。置き換え可能性とは、この"そうしなくてもよかった"という事態を表し、ここではABの自然変換に対応する。
本書の特徴はこの置き換え可能性を個の価値とする点にある。かけがえのないものが置き換え可能だからこそ自然変換にも価値がある。これは面白い認識だ。


3非基準的選択としての自由
本書は、我々が非基準的選択を常に行い、それを反省し、また選択し、を繰り返すことを自由と呼んでいる。そして更なる変換可能性を説く。
また、量子意思決定論についてにもこれらの論と接続可能性かありそうだ。

4行為をせまる書としての喪失
本書を読むことも選択の1つであり、置き換え可能性を作用させるために消えていく。本書は認知科学者のみにたいしての本では無いが、自身のモデルや実験を見直すいい機会になるのではないだろうか。

「ブログ主より」
選択するということは他を捨てること、そして我々は何気ない日常で無数にこの行為を行い、その積み重ねが今である。実に余計なことまで考えてしまいそうな内容だ。そしてこの選択性は原子レベルにまで持ち込めるらしい。今後はそれらについて調べ、ブログでその成果を公開していきたい。

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論文要約12「レーザー治療おける計算機援用レギュラトリーサイエンス」

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レーザー治療における計算機援用レギュラトリーサイエンス(西村、下条、栗津)


1はじめに
平成 28 年 6 月 29 日に発出された通知「レーザ医療機器の承認申請の取扱いについて」によりレーザーメス以外のレーザー装置も臨床不要対象となったことで、費用や時間コストが軽減された。
しかしレーザー治療の発展はかなり遅れており、その理由の1つとして承認基準の不明瞭が挙げられる。本稿ではその基準について述べる。


2臨床不要通知の改定
臨床不要になったとはいえ、既承認装置との同等性評価には試験や動物実験が残されているので、発展遅延の原因が無くなったとは言いがたい。以下では臨床不要通知の有効化への課題を列挙する。
・「使用目的及び作用原理が同一」の評価指標で、安全性の基準については、レーザー光と生体組織の相互作用により生じる副作用に数値的な基準を設けるべき。
・「既承認品との同等性」の評価指標について、レーザー装置の仕様が従来のそれと同等かという審査になっているので、本来の治療性能で同等性を評価すべき。
・「波長の組織選択性」の可否について、組織選択性を利用しているかの判断基準を定性的なものではなく、組織ごとにエネルギーを用いた定量的なものにするべき。
・「既承認品との差分」の評価指標については、その判断を定性的なものに委ねてしまっていることが課題として残っている。
・実際の運用状況との乖離について、これまではエビデンスは統計データによるものだったが、作用の物理化学生物的なプロセスによるものにすべき。


3計算機援用レギュラトリーサイエンス
医療機器への安全性、有効性の評価の迅速化は機器開発共通の課題である。そんな中近年第3の試験として、シミュレーションを活用した評価、判断の枠組み(計算機援用レギュラトリーサイエンス)が推奨されており、薬理作用を分子、組織、細胞、個体と段階的な数理モデルを構築しシミュレーションにより治療効果を評価する。これはコストの軽減と根拠の明確化をもたらし、また、実測困難なものに対してもモデルによるシミュレーションによるアプローチが可能である。


4レーザー治療におけるレギュラトリーサイエンス
レーザー治療では,レーザー光による直接的な作用は照射領域しか起こらず,その過程は領域を限定して考えることができる。光熱変換などの線形プロセスについてはモデル化や検証が行われている一方で、超短パルス(幅がめちゃくちゃ小さい)レーザーについてはその物理モデルが不明瞭である。
現状では機械的作用や恒常性維持機構などもモデル構築は実現しておらず、臨床試験の代替には程遠い。しかし実現されればレーザー治療機器の大きな進歩へとつながるだろう。


5超短パルスレーザーによる安全性の評価
過去に既承認機器2つを利用してシミュレーションを行ったところ、その正確さと拡張性が確認された。
その一方で信頼性の獲得の必要性も浮き彫りとなった。


6計算機援用レギュラトリーサイエンスの今後の展望
課題は以下の3点
・時間的な数理モデルの確立
数理モデルの精度評価
・パラメーターデータベースの整備


7まとめ
ムーンショットを推進する新たな事業の目標の1つである「生命現象のデジタルモデル化とその制御」実現のために計算機援用レギュラトリーサイエンスが実現することを願う。また、直近の課題にも共感していただければ幸いである。

「ブログ主より」
あまりに最先端かつ専門的だったため詳細は避け概要を掴むだけに留まってしまった。今後も最新の研究論文を読み込んで自身の強化に勤めていきたい。

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論文要約11「ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とその教育的意義」

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ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論とその教育的意義(丸山)

1はじめに
本稿の目的はウィトゲンシュタイン言語ゲーム論を教育という観点から読み解くことである。問題は2つ。
1つ目は、言語ゲーム論そのものに対する誤解が多いこと。
2つ目は、ウィトゲンシュタインが挙げた「教える-学ぶ」という観点からの研究がほとんどなされていないこと。
よって本稿ではこの2つの問題に向き合い、言語ゲーム論から教育論を提示することを目指す。


2ウィトゲンシュタインの経歴
1889年ウィーンで生誕。興味が機械工学から数学へと移り、ケンブリッジの学生となる。その後「論理哲学論考」を書き上げ、これで哲学の問題は解決とし教員となるが、再び哲学に価値を見いだし、前期哲学を批判しながら後期哲学を表した。1951年に死去。


3言語ゲームとは何か
言語ゲームは、日常の多様な言語活動のことだが、特に、子どもが使うような原始的で単純な形式がしばしば語られ、また、状況により言葉の捉えられ方が異なることに言及し、言語を生活の文脈から切り離すことの誤りを指摘するために採用されている。
原始的な言語活動に対して用いることが多いのは、単純であるが故に拡張しやすいからであり、単純な言語ゲームを拡張しながら言語の働きをみようとすることは哲学の手法のひとつでもある。


4言語ゲーム論の目的
ウィトゲンシュタインは再び哲学の道に戻ってから、自信が哲学の本質を解き明かしたとした「論考」に大きな誤りがあるとし、前期の哲学を批判していった。
「論考」とは言語と世界の間にある論理関係を明確にし、哲学的問題を招来させる誤解を解くために書かれた。対象と名は一対一であり、言葉が写像されて対象が表現される。
哲学後期のウィトゲンシュタインの「探究」は「論考」の言語論の考え方を批判するものである。つまり、言語と現実は対応関係にあり、言語の働きは現実の記述だとする考えを批判している。このままだと言葉の多様性を無視し、1つの意味しか見なくなってしまうからだ。そしてこうした誤りを否定するために言語ゲームが導入された。
ウィトゲンシュタインは、「心的な作用が語と現実を結びつけている。意味は語から独立しており、語は単なる記号でしかない」という考えを繰り返す。
対応説的な言語論に従って、語が心的な内容を指示し、それを記述することだとしたらばそれは誤りであり、それを正すために言語ゲーム論が導入されたのだ。


5教育論としての言語ゲーム
前述の通り言語ゲーム論は原初的な言語ゲームから通常の言語ゲームへの展開の考察である。通常の言語ゲームにおいて人は自分の語に疑問を持たない。しかし初期の言語ゲームにおいて子供達は自分たちの言葉に疑問を持ち、そこから言葉を習得していく。その過程で言語ゲームのプレイヤーの知識は拡張されるのだ。つまり原初の言語ゲーム→教育の言語ゲーム→通常の言語ゲームという段階を経て成長する。
ここからは通常のゲーム論の熟達、つまり、言葉を習得したとはどういう状態なのかという問いかけについての答えを明確にしていく。
(a)教育の言語ゲームと通常の言語ゲームの相違点と類時点
相違点は、前者ではゲームの高性能要素を理解していないプレイヤーがいて、言葉による説明が成り立たない場合があること。
類時点は、言葉を用いたふるまいの同型性である。程度の差はあれど、理解したかどうかは学習した言葉をどのように使うかで示され、そこでは通常の言語ゲームと同様の使い方が求められるのだ。

(b)他者である学習者の理解
理解したかどうかな確認は学習者の振る舞いによりなされるのであり、学習者の心的な現象を特定してなされるのではない。
それゆえに「理解している」というのは、任意の共同体に参加するための資格(例えば日本語を話せる、足し算が出来るのど)の確認的な意義をもつ。
なので、心的に理解したと思っていてもそれが誤りだったと気づくのはよくあることだ。

(c)語使用の知
言語ゲームにおいて理解は振る舞いによって確認されるが、言語ゲームの発展は単なる振る舞いの熟達だけに留まるのだろうか。
通常のゲームのプレイヤーは言語を定式化されたルールに従って使用してはいないが、それでも言語使用に対する正誤判定は可能である。語使用の知は、正しい語使用を支える知なのだ。
語使用の知は単なるルールの理解に留まらない。定式化されたものをただ機械的に使用するのではなく、状況文脈に沿った臨機応変な使用も支える知でもある。
語が規則に従って使われてない以上、規則化して教えることのできないものも必要である。言語ゲーム論によって明らかにされたこのような知識像は、言語は明言化された規則の応用であるという理論の批判であり、ここから教育の言語ゲームで学習者が何を学ぶのかをもう一度問い直すことができる。ただ現象と言葉を対応させるだけでなく、文脈による使い分けといったルール化できないことも学ぶ必要がありそうだ。


6おわりに
言語ゲーム論の読解を通して、知識の習得は状況文脈における使い方にまで拡張指せる必要があることが分かった。これらは最近の状況意味論や認知科学への課題としても残るだろう。

「ブログ主より」
かなり古い論文を引っ張ってきてしまったと後悔。そもそも学習者はいつまで学習者なのだろうか、その定量的ないし定性的な基準が無いことに対しては疑問が残った。しかしながら、言語という複雑で際限のないものを体系化して今後の議論の架け橋となったことには興味が湧いた。今後は最近の研究から、現実はゲーム論で述べられた意識について、その定式化が進んだのか、または別の展開になったのかを調べようと思う。


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